思った通り生きた母

プライベート

今日5月9日は母の命日

「5月9日」(3年前のこの年は母の日)の朝84歳で逝った

亡くなる四日前 5月5日の朝に母の意識がなくなったと病院から連絡があり
幸いGWで皆、仕事も休みだったのですぐに支度をし、大阪の妹夫婦の車で子供たち全員一緒に病院に向かうことが出来た。

病院に向かう途中、皆、これから来るお別れに覚悟を決めていた。京都を出てすぐ病院から又電話が入り、なんと!「お母さんの体調が持ち直したから、今から透析するか先生と相談します。」とのこと。
一気に緊張がほぐれ、みんな大笑いWW!「さすがお母さん!」「きっと長生きするで!」「ほんま良かったな~」

持ち直したので来なくても良い様な病院側だったが、せっかくみんな揃って病院へ向かっているんだから引き返すなんてもったいない、いや、絶対に会う!と決めて実家まで行くことにした。(現在の病院ではどうかわからないが3年前は亡くなるときしか面会は不可)

これが最後になるかも知れない。次の日曜は母の日 そうだ!母の日のお花持って行こう!

華やかな石けんフラワーで病室を明るくいい香りにしてあげよう!お母さんきっと嬉しいよね!

3年前はコロナウイルス蔓延の最中で病院もかなり管理が厳しかったが、看護師さん、職員さんのおかげで夜の時間まで待って一人ずつ5分ならと面会を許され、母と面会することが出来た。母はかなり痩せていたが意識は普通にしっかりあり、会話も少しはできている。

今すぐに亡くなるように思えなかった。真面目な弟と妹は面会時間を守っていたが私は名残惜しくて5分どころか30分以上母のそばにいた。面会時間をオーバーしている私に母は「もう、帰れ」といった。疲れたのか、病院に迷惑がかかると思っているのかな。

「いい加減にしろ」と弟が電話をしてきたが、もう少しそばにいたかった。

酸素マスクが苦しいらしく、すぐに外してしまう母に様子を見に来た看護師は「もう!外してもらったら困るのよね!」と私にも訴えるかのようにきつく叱ってさらにマスクの気紐を強めた。母は看護師さんがいなくなると又マスクをずらした。

看護師の態度に腹が立ったが、コロナ渦でピリピリした病院勤務。私には想像のつかないストレスだろう。「じゃ、お母さんそろそろ行くね。」「さいなら」

母は昭和11年生まれ、27歳で父と結婚、計画どおり1年おきに産んだ子供3人を育て、人生最期の「こどもの日」に子供達皆を招集して、4日後の「母の日」に空に帰っていった。

全て用意されていたとしか言えない、絶妙なこの日程調整も段取りよい母らしい(笑)我が家の伝説になった。ちなみに母はなくなってから子供たちが困らない様にお葬式や法事の金額や誰を呼ぶかまで全部書き残していた。(笑)

遺言ノートには、向日葵(ひまわり)が好きだった母が戒名に葵の文字を入れて欲しいとあり葬儀直前に叔母が見つけ、ギリギリ書き直して間に合ったことも笑えるエピソードだ。

お母さん全部あなたの思い通り、楽しい人生だったね!
「次生まれてくるときもあなたの子供で生まれたい」と色紙に書いて棺に納めた。

関連記事一覧

関連記事はありません。